blacknote

自分だけの秘密基地。本音専用のゴミ箱。ご連絡はTwitter(https://twitter.com/superflyer2015)経由でお願いします。

凄惨な事件、絶望的な事故、不幸の度合いと収益が比例する世界

f:id:superflyer2015:20190508203311j:plain

 

普段Twitterのタイムラインを眺めていることが多くのだけど、ニュース系のアカウントを色々とフォローしているため、事件や事故なんかが起こるとすぐに速報が目の前に現れる。

 

それにしても、悲しい話の多いこと多いこと、、、

 

今日は2歳の幼児が二人、交通事故で亡くなった。あんな見晴らしの良いところで晴天の下、正面衝突なんて起こるはずがないわけで、ドライバーの不注意が原因なのはほぼ間違いないだろう。

 

そういうニュースを目にすると、胸に突き刺さるような悲しみを感じるし、継続的に続報をこまめにチェックすることが多い。

 

ただ、しばらく時間が経ち、少し冷静になった時に毎回ふと感じる疑問がある。

 

悲しい事故や凄惨な事件ほど世間の耳目を集めるわけで、世間は強い関心を持ってニュースに飛びつく。それは当然ながらメディアの収益に直結するわけで、つまりは、不幸の度合いが高いほど収益もそれに比例して大きくなるのだ。

 

この事実に私が強い不快感を初めて感じたのは、小林麻央が闘病中だった頃の市川海老蔵のブログを読んだ時だった。「悲劇は金になる」。そんな現実を目の前に突きつけられ、人間の醜さ、人の世の異常性というものを痛感した。

 

メディアが事実をいち早く我々一般庶民に広く伝えてくれることには価値を感じるし、言論の自由が保障されていることは危険な独裁なんかを防ぐのに必要不可欠だ。だからメディアの存在には価値があるし、そこで働いている連中にも生活があるわけで、もちろん十分な収益だって必要に決まっている。

 

ただ、例えば、東日本大震災の後、各種メディアの記者たちが現地でひたすら「悲劇」の収集に明け暮れていたという話は有名であり、詰まる所、バランスを取るのが非常に難しいのだと思う。「キッツい悲劇ほど金になる」という厳然たる現実が目の前にあるわけで、そりゃ記者はそういう行動を取るだろう。深い悲しみや不条理、人間のドス黒い闇は連中からしたら金塊のようなものなわけで、そりゃ宝探しに夢中にならない方が異常だ。

 

時々、「ニュースなんてもう見たくない」と思う時がある。色んな意味でそう思うのだ。上述のようなメディアの収益構造自体に感じるモヤモヤもあるし、もうあまり悲しい話なんて知りたくないという思いもある。

 

ただ、「知らない」ということはある意味罪であるし、自分にとって都合の良いものにだけ選択的に触れるという生き方に対しては、人間の傲慢さや利己主義を感じる。

 

では一体どうすれば良いのか?

 

天才がアナーキストになる、なんて話はフィクションの世界でたまに題材にされるが、一般平民である自分のような者でも理解はできる。人間や人間社会にはあまりにも潜在的な「欠陥」が多く、真面目に考えれば考えるほど、もう何もかもが腹立たしく、ただただ不快に感じられるのだ。それならもういっその事、全部壊そう。リセットボタンを押して全てを消し去り、ゼロから作り直した方がいいに決まっている。こんな感じではなかろうか。

 

「不確定さが人生を面白くしている」、「鈍感力が大事」、こういう文言で適当に片付けようとする白痴共が私は大嫌いだが、かと言って、真にバシッと詰ませることのできる策を現時点で持っているわけではない。

 

とりあえず現時点で一つだけ確かなのは、我々は皆、真実から目を背けず、如何なるものであれ盲目的に信じることはせず、とことん疑い、よく学び、自分なりの答えを追い求める努力を継続すべきであるということだ。「真面目な人ほど生きづらい世の中」なんて言われてはたまったものではない。